和文誌に話がいったところで,金森修さんの追悼特集はいつ出るのでしょうか.先日掲載された梶雅範さんの追悼文より1行でも短かったら学会誌の私物化という批判を免れないでしょう.そのようなことは,真摯で公正な人柄であった泉下の梶さんご自身が喜ばれないことと思います.
学会誌に戻って,追悼文について一言.梶雅範さんには私もお世話になったし,彼の追悼文が学会誌に載ることに異論はありません.しかし金森修さんの科学史への貢献が梶さんに劣ると考える人はいないでしょう.
金森さんの追悼文が『科学史研究』に載らなかったら,あるいは梶さんの追悼文に比べて短かったら,50年後の科学史研究者は,当時の『科学史研究』は研究上の重要な潮流を代表していなかった二流雑誌だったと評価することになるでしょう.
和文誌編集委員会は,長らく学会に貢献し,短期間とはいえ編集委員長を務め,病魔に斃れた梶さんを悼んでいる.それは結構です.しかし編集された学会誌はいずれ歴史家の検討の対象となる.我々は皆,忘却の淵に沈むのでなければ,歴史の法廷に立たされる運命にあるのです.
学会誌は後世に伝えられる以上,後世の批判に耐えねばならない.歴史研究を事としている以上はそういう緊張感が和文誌編集委員会にも必要です.